「妻をエコノミーには乗せない」私がドバイに一人で来た理由と、かつて捨てた自転車の話

コラム:「妻をエコノミーには乗せない」私がドバイに一人で来た理由と、かつて捨てた自転車の話

ドバイの夜景は、残酷なほどに美しい。

世界一高いビル、ブルジュ・ハリファが見下ろすこの街は、欲望と成功、そして人間の限りない野心が砂漠の上に結晶化した場所だ。煌びやかな光の洪水の中、私は一人でグラスを傾けている。

隣に、妻はいない。

喧嘩をしたわけではない。仕事が忙しくて彼女の都合がつかなかったわけでもない。理由はもっと単純で、そして私にとっては絶対に譲れない「鉄の掟」があるからだ。

「妻を連れてくる時は、ビジネスクラス以上でなければならない」

これが、私が自分自身に課したルールだ。今回、スケジュールの都合や諸々の事情で、どうしても二人分のビジネスクラスの席を確保することができなかった。エコノミークラスなら空いていたし、妻に聞けばきっと「エコノミーで十分よ、一緒に行きたい」と笑ってくれただろう。彼女はそういう女性だ。

けれど、だからこそ、私は首を縦に振らなかった。

「今回は一人で行ってくるよ」

そう告げて、私は一人、飛行機に乗った。

なぜそこまで頑なになるのか。単なる見栄だと思われるかもしれない。あるいは、時代錯誤な男のプライドだと笑われるかもしれない。だが、このこだわりには、私が過去の苦い経験から学び、骨の髄まで染み込ませた「人生を変えるための教訓」が詰まっているのだ。

時計の針を、少し昔に戻そう。

かつて、私の収入が今よりもずっと少なく、ドン底とも言える時期があった。生活を切り詰め、経費を削減し、再起を図ろうともがいていた頃の話だ。

その時、私は移動手段として「自転車」を選んだ。

最初は、ただの節約のつもりだった。車を持てば維持費がかかる。電車やタクシーに乗れば、その都度財布が軽くなる。しかし自転車はどうだ。ガソリン代はゼロ、駐車場代もかからない。自分の足さえ動かせば、どこへでも行ける。

「なんて便利なんだ」

最初はそう思った。いい歳をした大人が、汗だくになって自転車を漕いで移動する。すれ違う車のドライバーや、涼しい顔をしてタクシーに乗り込むビジネスマンを見て、ふと恥ずかしさが込み上げる瞬間もあった。けれど、「今は耐える時だ」「これが賢い選択なんだ」と自分に言い聞かせ、その恥ずかしさを飲み込んだ。

夏は灼熱の太陽が容赦なく肌を焼き、シャツは汗で背中に張り付いた。冬は凍てつく風が指先の感覚を奪い、耳がちぎれそうに痛んだ。雨の日は最悪だ。カッパを着ても中まで濡れ、泥跳ねを気にしながらペダルを漕ぐ惨めさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。

それでも、私は自転車に乗り続けた。

そして恐ろしいことに、人間というのは「慣れる」生き物なのだ。

あんなに惨めだった雨の日も、あんなに恥ずかしかった「いい大人の自転車移動」も、続けているうちに何とも思わなくなっていった。むしろ、「移動費がかからない自分は賢い」「コストを抑えて生活できている」という、歪んだ安堵感を抱くようにさえなっていた。

収入が低い。生活水準が低い。

それが「板について」しまったのだ。

「自転車だから、仕方ない」

「自転車だから、この程度の服でいい」

「自転車だから、高級な場所には行かなくていい」

自転車という安価な移動手段が、私の思考までも安価なものへと書き換えていた。「低所得であること」に居心地の良さを感じ始め、そこから抜け出そうとするハングリー精神が、音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

ある日、私はハッとした。

「これではダメだ。このままでは一生、自転車を漕ぎ続ける人生で終わる」

その日、私は自転車を捨てた。

まだ収入が増えたわけではなかった。けれど、無理をしてでも車に乗り、時にはタクシーを使い、新幹線で移動するように生活を一変させた。

当然、経費は跳ね上がった。毎月の支払いに追われ、胃が痛くなるような日々が続いた。だが、その「痛み」こそが必要だったのだ。

「稼がなければならない」

移動費を払うために、経費を捻出するために、私は脳みそから汗が出るほど考え、死に物狂いで働いた。自転車に乗って「お金がかからないから大丈夫」と安心していた頃には決して生まれなかったエネルギーが、湧き上がってきた。

車で移動することで行動範囲が変わり、出会う人が変わり、身なりに気を使うようになった。タクシーの中で仕事の構想を練り、新幹線で次のビジネスプランを立てた。

結果として、私の収入は上がり始めた。

生活水準は、あとからついてきたのではない。「先に水準を上げた」からこそ、それにふさわしい自分になろうと必死になり、現実が引き上げられたのだ。

あの時、自転車を捨てて本当によかった。もしあのまま、「自転車で十分だよね」と笑ってペダルを漕ぎ続けていたら、私は今、ドバイのこの景色を見ることはできていなかっただろう。

話を現在に戻そう。

私が妻をエコノミークラスに乗せない理由は、あの時の「自転車」と同じ理屈だ。

妻は優しい。私が「今回はエコノミーで行こう」と言えば、きっと文句ひとつ言わずについてきてくれる。狭い座席で膝を抱え、「これでも十分楽しいね」と微笑んでくれるだろう。

だが、それに甘えてはいけないのだ。

「エコノミーでもいいよね」という妥協は、かつて私が自転車の上で感じた「このままでいいや」というぬるま湯と同じだ。

最愛のパートナーである妻には、常に最高の世界を見ていてほしい。

移動の疲れなど感じさせず、シャンパンを飲みながらゆったりと足を伸ばし、笑顔で旅を楽しんでほしい。彼女には、その価値がある。そして、彼女にふさわしい待遇を用意できる男であり続けることが、私の夫としてのプライドであり、仕事への原動力なのだ。

もし今回、私が妥協して二人でエコノミーに乗ってドバイに来ていたらどうなっていただろう。

「まあ、エコノミーでもなんとかなったな」

「ビジネスクラスなんて、無理して乗らなくてもいいか」

そんな風に、再び「低所得のマインド」が忍び寄ってきていたかもしれない。それは、私たちの未来の可能性を閉ざすことと同義だ。

だから私は、一人で来た。

隣の空席は、私の力不足の証だ。

この孤独は、強烈なモチベーションになる。

「次は絶対に、彼女を連れてくる」

「次は絶対に、二人でビジネスクラスに乗る」

「いや、ファーストクラスでもいいかもしれない」

そう思うだけで、体の中に熱い力がみなぎってくる。ドバイのビジネスチャンスを貪欲に掴み取り、もっと大きな成果を出してやろうという意欲が湧いてくる。

妻をエコノミークラスに乗せないこと。

それは彼女への敬意であると同時に、私自身が「自転車を漕いでいたあの頃の自分」に戻らないための、退路を断つ儀式でもあるのだ。

ドバイの夜景は美しい。

けれど、やはり隣に彼女がいない景色は、どこか色が欠けて見える。

この寂しさを噛み締めながら、私は誓う。

次にこの地を踏む時は、必ず隣に彼女の笑顔がある。そしてその旅路は、彼女にふさわしい最高級の快適さが約束されているはずだ。

そのためになら、私はどんな努力も厭わない。

かつて自転車を捨てて走り出した時のように、私はまた、ここからさらに上のステージへと駆け上がっていく。

愛する人を、高い場所へ連れて行くために。

それが、私の生きる証なのだから。

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